人生が変わる お金の大事な話

【Story7】母の死をきっかけに決意する

サラリーマン生活に没頭して2年になろうというころ、突然の悲しみが僕を襲った。母が57歳で亡くなった。
母はそれまでとても元気でピンピンしていた。
ちょうど亡くなる数日前に一緒に旅行へ行き、僕のサラリーマン生活が珍しく長続きしていることを喜んで、安心した様子だった。僕はこれまで母に心配をかけ通しで、親孝行なんてしたことがなかった。だから、旅行はせめてもの罪ほろぼしだった。会話も弾んで楽しい旅行だったのに……。その数日後、あまりに突然の出来事だった。


母がいつも通っていたプールで泳いでいる最中に脳出血が起こり、そのまま意識を失って、1週間ほどで亡くなってしまった。
それまで病気知らずの母だったので、いきなりの他界に僕は大きなショツクを受けた。
人間はいつどうなるかわからないという暗い気分に沈んだ。
〈僕はこのままでいいのかな?〉
自分で一歩を踏み出さない限り、物事は始まらないことはわかっていた。踏み出した足をケガすることもあるかもしれない。それでも、踏み出さないと何も始まらない。
〈僕は何のために、ITベンチャーで働いてきたんだ?でも、学歴もお金もコネもない僕に何かを始めて成功させられるのかな。きっとできっこない……〉
自問自答する孤独な日々が続き、自分に嫌気のさす日もあった。
けれども、今から考えるとその孤独が、ゼロから考える機会を与えてくれたのかもしれない。


〈死は、いつやって来るかわからない〉
母が急な人生の幕引きを迎えたので、自分の考え方に変化が生まれていた。
〈何かをしたい。チャレンジしたい。チャレンジして失敗しても行動自体に価値があるじゃないか〉
そんな激しい気持ちがわき起こってきた。〈するなら早いほうがいい。できるだけ早いうちに、自分の生きる道を決めたほうがいい。何かをやるにはいましかないかも……〉
 母の死をきっかけに、独立したいという気持ちが心の奥底からくつきりと浮かび上がってきた。そして臆病な僕が悩んでいた「失敗」への抵抗も徐々に消え去っていった。


できる理由を考える


ある日、僕は星さんに会いに行った。

そして自問自答をくり返していることを正直に打ち明けた。すると、
「不平不満、グチからは何も生まれてこない。心が傷つき、意欲がそがれるだけだよ。悩むことと考えることは違う。悩むだけではダメだ。考えることだよ」
その考えぬいた末に出てくるものが、ひらめきだ。それも、悩みぬいた過程があったからこそだという。そして、こうも言った。
「できないという言葉は使っちゃいけない。それよりもできる理由を考えなさい。決してあきらめないこと。そのあきらめないという気持ちの中にこそ、自分のしたいことやビジネスを成功させる原動力が潜んでいるんだ。大事なのは勉強と知識、そして考え方、この三つだ」


これらを過不足なく押さえ、合わせて一つにまとめることができれば、成功への道が開かれる。その道は、自分の努力とオ覚で作るしかないのだという。
「君ならできるさ。いいかい、いつかも言ったが、知恵は生きていくうえでの底力となるんだ。まずは目標を紙に書いてごらん。書くことによって焦点が定まるし、今まで見えなかったものが見えてくるはずだよ」

26歳、一念発起してlT事業を始める

僕は母の死後、26歳で新たな一歩を踏み出すことに決めた。
このときは、いわばマイナスからの出発だとばかり思っていた。
だがそれは間違った考え方だった。そもそも学歴もお金もない僕は、失うものも少ない。それに僕には星さんという優れた助言者がいた。
また、2年間の中古車検索サイトの広告営業を通じて、僕にはオンラインショップやホームページ制作、システム開発などの知識と経験の積み重ねがあった。
それを下地として、自分でもいろいろと学んだりしていたので、ちょうどITが波に乗っているとき、その波に狙いをつけて飛び乗った。


学ぶということは「真似ぶ」に始まるという。ほかの人がしていることのなかでも成功しているもの、それを真似することにした。
こんな話を、のちに聞いたことがある。
あのビル・ゲイツは、誰かが技術を開発すると、それを非常にタイミングよく取り込む。それで自分の事業を展開する能力を持っている。学んで、自分のビジネスに応用する。
つまり、ただ真似るのではなく、知恵で応用する力があるから、先に走ることがなくても、成功できるのだろう。
僕は僕なりに、今ほどIT事業が乱立していない時期でもあったので、思い切って真似てみた。


もちろん、どんなIT業種がどれくらいの市場を持ち、誰が売って、どういう人が買っているのかを、自分なりに調べたうえのことだ。
そうして、自分にできそうなIT関連の業種を探し出した。
まずはホームページ制作とシステム開発の仕事を一人で始めることにした。
とはいえ、制作と開発の十分な専門知識を持ち合わせていなかったので、仕事を受注して、それを外注に出すという方法をとった。設備投資の必要もなく、事務所は当時借家として借りていた狭いアパートの一室だった。
苦労したのは、受注するときだ。こちらが十分に理解できていないのだから、お客さんに専門的な用語をわかりやすく説明するのはとても難しい。また逆に、お客さんや外注先から専門的なことを聞かれても、よくわからなかったりする。ずいぶん、冷や汗をかいた。


最初の数力月は、月の収入が10万円くらいにしかならなかったが、月を追うごとに売り上げは伸びていった。それでも、サラリーマン時代の年収に近づくまでには至らない。
まだまだ「お金の入る仕組み」からは遠かった。それでも、
「安い食材でも、めんどうくさがらずに手間暇をかけると美味しくなる。それが相手にも喜ばれる。どんな素材を使った起業でも同じだよ」
そんな星さんの言葉を噛みしめながら、営業に飛び歩いていた。